「常識」と「コモン・センス」 ~ 自分の呼吸で生きる知恵~

子供の頃、座敷の壁に掛かっていた武者小路実篤の色紙。
ジャガイモと玉ねぎが描かれた素朴な水彩画。
そして「君は君 我は我也 されど仲よき」と書かれた句がとても印象に残っています。
君と我とは、ジャガイモと玉ねぎのように違った存在だが、お互いに認め合い、仲良くしている、というメッセージが幼心に心地よく響いて来たのでしょう。

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かつて、Eテレで『ニッポンのジレンマ』を観ていたら、「常識」と「コモンセンス」の違いが論じられていました。
辞書的には、両者は互いに訳語の関係に当たるのですが、それぞれの言葉が含んでいるニュアンスには180度の違いが有る、というのです。

「コモンセンス(common sense)」というのは、「それぞれの人には違いが有るけれども、共通する感覚も有るはずだ。その共通する感覚をベースにしよう」ということで、自分たちの経験の中から手探りで引き出されて来たもの。
従って、「コモンセンス」は内発的で、主体的に自分が関わって作り出しているという感覚が有ります。

一方、「常識」の方は、「人間はこのように感じるのが当たり前だ」と彼我の違いを顧慮せずに、無意識の中に相手に同質性を求めてしまうもの。
従って、「常識」は社会規範として外から当てはめられ、思考や行動の自由を制約するものと感じられます。

本来は互いに訳語の関係であり、同じ概念を持つはずの言葉が実際には180度異なったニュアンスを持っている、ということは、これが正に文化の違いなのだ、と思わせます。
「コモンセンス」は個人に属しており、「コモンセンス」は個々人の中に在ります。
一方、「常識」は共同体に属しており、「常識」は個々人の外に在ります。

人間は、内発的な動機で行動している分にはエネルギーが回っていて疲れませんが、外から促されて不本意な行動をしているとエネルギーが枯渇し、疲弊します。
「常識」は共同体のリーダーにとっては都合の良いツールですが、共同体に属する個人にとっては生きづらさを感じさせる元凶となります。
現代において、私たちを真綿のように締め付ける同調圧力の現れがこの「常識」だと言うことが出来ます。

多くの人は不用意に目立ちたくないので「常識」に沿ったふるまいで他者との同質性を演じますが、それでは本来の自分を隠すことになり、他者と本当に親しい関係を結ぶことが難しくなります。
一見同質のようでありながら仲良くなれないというのは淋しい限りです。

それに対して、「君は君 我は我也 されど仲よき」という実篤の句は、互いの違いを認めた上で共通した感覚をベースに仲良くする、という正に「コモンセンス」的な生き方を示しています。
大正デモクラシーという自由と個人主義が大切にされた時代の生きやすさを彷彿させます。

社会規範としての「常識」を尊重しつつも、もうひとつ個人に軸足を置いた「コモンセンス」的な感覚を持っていると自分のリズムで呼吸が出来るようになり、遥かに生きることが楽になります。
そうした「コモンセンス」を取り戻し、育てることも、カウンセリングの大きな役割なのです。
「常識」と「コモンセンス」の違いを意識しつつ、両者を自分の中で仲良く併存させて生きる知恵も有るのではないかと思います。

カウンセリングルーム・メイウッド

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